外国人として生活することで一番の障壁になるのは言葉だと思う
短期間ながらも、海外で生活していると、外国人として生活することについてよく考えるようになりました。
日本で日本人として生活していることが、どんなに簡単であるかを重知らされます。
外国人として過ごしていて、最も障壁に感じていることは言葉です。
もし、インドやオーストラリアなど英語を公用語として話す国であれば、同じくアメリカやイギリスなど同じく英語を話す国へ移住するのであれば、言葉の障壁はあまり感じられないでしょう。
ですが、もしそのような状況でない場合、つまり言語の異なる国で外国人として過ごすことは、何をするにもまず理解することから四苦八苦してしまいます。
この言葉の障壁によって、いろんなことに障害は出てきますが、予想とは異なり、人とのコミュニケーションにとっては、それほどの障壁を感じられませんでした。
人の行動や、身振り手振りをみていると、言葉よりもその人の人格や考え方を物語っているように思いました。
簡単な言葉だけで、その人と心を通わせられたような気持ちになることもありました。 人との関わりには言葉の障壁は、このようにあまり感じていません。
もっと深く関わることがあれば、言葉の必要性を感じてくるかもしれません。
ただ、この他にも、現時点で言葉の障壁を強く感じることがあります。それは、行政上、法律上の手続きを行う時です。
手続きを行う時ほど、言葉を理解しない自分が無力に感じられたことはありませんでした。
私は1人では全く行うことができず、現地の人に完全に頼らなければなりませんでした。
現地の人に依頼して、手続きが簡単に、無事に終えることができたことは、とても満足しています。
これから必要な時があれば、きっと同じ人に依頼するでしょう。
ただ、自分が何もできなかったという事実が、この手続きを無事に終えたこと以上にとても印象に残りました。もし言葉を理解できたら、もっと状況を理解できただろうにと思います。
このような体験をしたからこそ、今は言葉を学ぶ必要性を強く感じています。
外国人として生きることを決めたからには、この困難も自分が選んだこととして諦めず、克服していかなければと思います。